2027年は見沼と江戸(東京)の300年の節目。「見沼代用水」が教えてくれること。

見沼と江戸(現在の東京)の関係を考えるとき、私たちは「400年」という時間をひとつの目安にしています。

その起点としているのが、1629年。江戸幕府が八丁堤を築き、農業用水を蓄える「見沼溜井(みぬまためい)」を整備した年です。

もちろん、見沼の自然や人々の営みが、この年に始まったわけではありません。

私たちが注目しているのは、江戸時代に整備された水の仕組みが、その後の農業や地域の暮らしを形づくり、現在の見沼へとつながっていることです。

そして、この約400年の歴史のなかには、もうひとつ大きな節目があります。

それが、2027年に迎える「見沼代用水開削300周年」です。

さらに翌2028年には見沼代用水の完成から300年、2031年には見沼通船堀の開通から300年を迎えます。

この一連の出来事は、単なる土木工事の歴史ではありません。

都市と農村が、水や食料、資源を通じてどのようにつながってきたのか。そして、これからどのような関係を築いていけるのか。

その歴史を振り返り、未来を考える機会でもあります。

1629年。見沼は巨大な水がめになった。

現在の見沼田圃には、田畑や水路、雑木林、斜面林などが広がっています。

しかし、約400年前の見沼は、現在とは大きく異なる姿をしていました。

1629年、江戸幕府は八丁堤を築き、周辺の農地に水を供給するための巨大なため池「見沼溜井」を整備しました。

その面積は約1,200ヘクタールともいわれ、現在の見沼田圃に匹敵する規模でした。

水を蓄え、必要なときに農地へ届ける。

当時の見沼は、農業を支える重要な水のインフラだったのです。

ただし、この整備によって、それ以前の見沼の自然環境や土地利用も大きく変化しました。

見沼の歴史は、自然がそのまま保存されてきた歴史ではありません。

人々が水や土地と向き合い、その利用方法を変えながら暮らしてきた歴史なのです。

1727年。水がめを農地へ変える大工事が始まった。

それから約100年後。

江戸の発展とともに、食料を安定して供給するための農地の拡大が求められるようになりました。

8代将軍・徳川吉宗の時代、幕府は享保の改革の一環として、新田開発を進めます。

その対象となったのが、見沼溜井でした。

巨大なため池を干拓し、広大な農地へとつくり変える計画です。

しかし、大きな問題がありました。

見沼溜井をなくしてしまえば、それまで水を利用していた周辺の田畑に、農業用水を供給できなくなってしまいます。

そこで考えられたのが、利根川から新たに水を引くという方法でした。

ため池の代わりとなる用水路。

それが「見沼代用水」です。

工事を指揮したのは、幕府の役人であり、水利技術に優れた井澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)。

1727年に始まった開削工事では、地形や既存の水路を巧みに利用しながら、約60kmに及ぶ新たな水路が短期間で築かれました。

翌1728年には見沼代用水が完成し、見沼溜井の干拓によって約1,200ヘクタールの新田が開発されました。

水を蓄える場所から、水を引き、農作物を育てる場所へ。

見沼は、およそ100年の間にその役割を大きく変えたのです。

1731年。見沼と江戸をつなぐ水の道が開かれた。

見沼の変化は、農地の開発だけでは終わりませんでした。

1731年には、見沼代用水と芝川を結ぶ「見沼通船堀」が開通します。

見沼代用水と芝川には約3メートルの水位差があり、そのままでは船を行き来させることができません。

そこで、水門にあたる「関」を設け、水位を調整しながら船を通す仕組みがつくられました。

いわゆる「閘門式運河」です。

見沼通船堀は、日本に現存する閘門式運河のなかでも特に古いものとして知られています。

この水路によって、見沼周辺で生産された米などの農産物が江戸方面へ運ばれ、江戸からは肥料や生活物資などが運び込まれました。

当時の江戸では、人々の排泄物である下肥も農業に利用されていました。

都市で生まれた資源が農地に戻り、農地で育った作物が再び都市へ届けられる。

もちろん、すべての資源が無駄なく循環していたわけではありません。しかし、都市と農村が物資をやり取りしながら、互いの暮らしを支える仕組みが存在していたことは確かです。

農地が都市を支え、都市もまた農地を支える。

見沼と江戸は、水路を通じて結びついていたのです。

見沼通船堀を利用した舟運は昭和初期まで続き、地域の農業や経済を支えました。

2027年から2031年へ。見沼の歴史を振り返る5年間。

これから見沼には、重要な300周年の節目が続きます。

  • 2027年:見沼代用水の開削300周年
  • 2028年:見沼代用水の完成・見沼新田開発300周年
  • 2031年:見沼通船堀の開通300周年

1629年に整備された見沼溜井。

1727年に始まった見沼代用水の開削。

1728年の新田開発。

そして、1731年の見沼通船堀の開通。

これらの出来事をつなげて考えると、見沼が単なる農地や自然の残る場所ではなく、都市の発展と深く関わりながら、その姿と役割を変えてきた場所であることが見えてきます。

では、現在の見沼はどうでしょうか。

東京都心から約30kmという距離にありながら、見沼田圃には今も広大な農地や水路、斜面林などが残されています。

そこには農業を続ける人々がいて、水路を管理する人々がいて、自然環境を守り、再生しようと活動する人々がいます。

現在の見沼の風景は、自然の力だけで残されたものではありません。

人々の営みと、長年にわたる維持管理や保全の積み重ねによって、受け継がれてきた風景なのです。

江戸の循環は、現代にも生かせるのか。

江戸時代の社会には、現代とは異なる資源利用の仕組みがありました。

都市で生まれた有機物を農業に利用し、農村から都市へ食料を供給する。

水路は農業用水を届けるだけでなく、人や物資の移動にも利用されていました。

こうした仕組みには、限られた資源を活用するための知恵が見られます。

しかし、江戸時代の暮らしをそのまま理想とすることはできません。

当時には当時の環境負荷や衛生上の課題があり、人口規模も技術も、現代とは大きく異なります。

大切なのは、昔の暮らしに戻ることではなく、歴史のなかにある仕組みや考え方を、現代の技術や社会に合わせて生かすことではないでしょうか。

例えば、都市から生まれる有機資源を安全に農業へ還元すること。

自然環境の回復につながる農業を広げること。

地域で育った農産物を都市の暮らしに届け、その消費が農地や生態系の維持につながる仕組みをつくること。

そして、農業だけでなく、企業や研究者、生活者も参加できる新しい関係を築くこと。

江戸の循環をそのまま再現するのではなく、現代にふさわしい循環へと発展させていく。

そこに、見沼と東京の新しい可能性があると考えています。

都市の営みが、自然を豊かにする未来へ。

現代の東京は、世界中から食料や資源を集め、膨大なエネルギーを消費する巨大都市になりました。

その便利さや豊かさを支えているのは、都市の外側に広がる農地や自然、そして多くの人々の営みです。

一方で、気候変動や生物多様性の損失、農業の担い手不足など、これまでの社会の仕組みを見直す必要性も高まっています。

約300年前、先人たちは当時の社会の課題に向き合い、水と土地の利用方法を大きく変えました。

では、現代の私たちには何ができるのでしょうか。

見沼に残された農地や水辺、斜面林を大切にしながら、自然を回復させる農業や都市資源の循環に取り組む。

地域の農産物を食べることが、農地の維持や生物多様性の保全につながる。

企業の経済活動が、自然環境の再生を支える。

都市に暮らす人々が、自然をただ消費するだけでなく、豊かにする側にも参加できる。

都市の営みが、自然を育む。

私たちが目指しているのは、そんなネイチャーポジティブな社会です。

2027年から2031年。

見沼代用水と見沼通船堀の300周年は、過去を祝うだけでなく、これからの都市と自然の関係を考える大切な機会になるはずです。

かつて水路が見沼と江戸をつないだように、今度は食、資源、人、技術、経済活動を通じて、見沼と東京をつなぎ直していく。

400年の歴史から、東京の新しい循環を。

未来に向けた挑戦を、ここ見沼から始めていきたいと思います。